真夏の怪談 2014 8 23

書名 財務省の階段
著者 幸田 真音  角川文庫

「あの日は、突然、やってきた」
 昼下り、業界最大手の三矢銀行、債券ディーリングルーム。
また、やってしまった。
次長待遇の松川は、つぶやく。
緊張が続くと、トンカツが食べたくなる。
あれほど医者から控えるようにと言われたのに。
髪の毛に白髪が混じるようになってから、そう言われるようになった。
 睡魔がやってくる前に、ディスプレイが異変を告げる。
アメリカの格付け会社が、突然、米国債の格下げを行ったのだ。
そういうニュースが流れている。
 なぜだ、日本時間の、こんなときに。
時計を見ながら、ニューヨーク支店の親友に電話する。
夜更かしのあいつは、まだ起きているはずだ。
 天井の汚れが気になる。
どうして、こんな時に、そんなことが気になるのか。
「米国債の損失をカバーするために日本国債も売られるぞ」と、親友は脅かす。
 あわててディスプレイを見ると、
あれほど豊富だった買い注文が一つもない。
 午前中に約定した、あの注文が最高値になってしまった。
株式市場では、よくあることだが、
ストップ高付近の売りを好んで買う投機家を嘲笑っていた俺が、
まさか、債券市場で、その仲間になってしまうとは。
 待っていたのは、ストップ安の連続だった。
翌日も気配値のままで終わってしまった。
 それは、株式市場では、時々あるが、
もし債券市場であったら、恐怖そのものである。
 深夜まで及んだ緊急会議は何も得られるものはなかった。
あの日の午前中の約定は19億円。
いや、そんな金額、はした金に近い。
わが社全体で、日本国債の保有額は100兆円近い。
 俺が辞表を書いて済む話ではない。
会社存亡の危機である。
どう考えても、何を考えても、堂々巡りして、
結局、会社存亡の危機にたどり着く。
 他に買うものがなかったのだ。
近年、資金需要が少なく、つまり、融資案件は少なく、
結局、国債を買うしかなかった。
気がつけば、国債の保有額は100兆円近くに達していたのだ。
 俺だけの責任ではない。
歴代の担当者全員の責任だ。
俺の責任は、たったの8分の1だ。
 それでも10兆円を超えると気づいた時、
引き出しにあった大型のステンレス製のペーパーナイフに手が伸びてしまった。
数万人の社員と家族が路頭に迷うのか。
山一證券の破綻を思い出す。
「死人が出るまで、暴落相場は止まらない」
そんな言い伝えを思い出してしまった。
 思い出の数は少ないが、次々と甦る。
ヨチヨチ歩きの息子をはらはらと見守る。
妻は、どんな顔をしているかと、
のぞいてみると、なんと母の顔だった。
 人生の最後を迎えるに当たって、思い浮かべたのは、
妻でもなく、息子でもなく、母だった。
そして、ヨチヨチ歩きの子供は、なんと俺だったのだ。
母さん、許してくれ。
 「おい、起きろ。早く売りを出せ」
あれ、先輩、なんで、ここに。
100戦して99勝とまで言われたにもかかわらず、
非業の死を遂げた伝説のディーラーと言われた先輩が。
あの1敗がブラックマンデーだった。
 ああ、先輩が迎えに来てくれた。
「何を寝坊ている。早く売り注文を出せ」
気が付けば、ディスプレイの時計は22時。
二日間も消えていた買い注文がディスプレイにあふれている。
この時間はロンドン先物市場か。
指が痛くなるほど売り注文を出す。
 相場の反発は激しく、もっと待てば、利益も出たはずだ。
冷静になった市場が、巨額の資金を吸収できるのは、
米国債しかないことに気がついたのだ。
 翌日の役員会議。
「松川君、売りを出すのが、早かったね」
「今日の相場なら、わが社に利益が出ている。後で詳しい報告書を出してくれ」
 自殺まで考えた俺の苦労も知らずに、
専務は社長(頭取)へ階段を登り続けている。
 「一将功成って万骨枯る」
そんな言葉を松川は思い出した。
 高校生の時、漢文の先生が、
「一人の将軍が手柄を立てるときには、
無数の人々の生命が犠牲になっている」と黒板に書いているのを思い出した。
(引用、以上)
(注)上記の小説を引用しながら、よりインパクトがあるように改変しました。
 これを債券ディーラーが読んだら、どういう反応を示すのか。
「冗談じゃない。その問題で、心配で心配で夜も眠れないのに」
 この本は、短編の「経済ホラー」で構成されていますが、
「金融市場の窓」を読むと、背筋が寒くなるでしょう。
 猛暑の日々が続いていますが、
この小説を読めば、当分、涼しい日が続くと思います。














































































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